■午前中に吉祥寺に出て散髪。伸びきっていたのでたくさん切ってもらってさっぱりと軽くなった。

■家に戻りジャンバラヤを食べビールを1本飲んで日曜市のための作業。引っ越し後、本が入っているダンボールはまだすべて開けることができずに積まれていて、思うように作業進まず。はやくあたらしい棚がほしい。

■夜、かつおの刺身でビール。新居にやってきて一番長く家にいた一日ではなかろうか。斜向かいの家の子供からの手紙がポストに入っていてなごむ。「引っ越してきてくれてありがとう」。

■今さらながら東浩紀・北田 暁大『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』をようやく読み終える。利便性を追求するがゆえ街の個性や文化的な蓄積(?)が失われ、どこに行っても同じような風景が広がる。という危機感が、実はほんとうに「危機」なのだろうかと考えるに機会を私は得た。
街の個性や文化的な蓄積がそう簡単にうしなわれるものだろうか、というか、もっと細部を見ればいくらでも個性はみつかると、庭に出て周りの風景を雑草を眺めながら私は思うのだった。
もちろん利便性を追求するとろくなものにならない、風景としておもしろくなくなることはなんとなくわかる。かの荒川修作は徹底的に不便で身体に負担をかけるよう設計でおもしろい形のいろいろな色の建築物を作った。安全性・利便性・セキュリティのどれもあったもんじゃないが荒川が唱えたのは「死なないための建築」だった。
異物にぶつかることで何かを発見する。感覚が変容する。ということは生きるうえで大事なのだと思う。異物を排除し均質な風景ばかりにほんとうになってしまうのだったらそれはとてもつまらない。
と何を言いたいのかよくわからなくなってしまった。
すごく身近なはなしだけれども、中央線高架化によって武蔵境と東小金井と武蔵小金井がどれも同じになってしまってほんとうにつまらない。駅の個性が失われていっているのを電車を使っている身としては実感している。西荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺の改札の風景もいつのまにか同じになってしまった。