■日曜日。家でまたおにぎりなどを食べて、谷保天満宮の祭りへ。途中実家に寄りインド帰りの両親からあれこれ話を写真付きで聞き、ドアに吊るす飾りをみやげにもらった。母はまるで練習したかのようにすらすらと写真を指差しながら話すのでこちらも身を入れて聞いた。


国立駅周辺も神輿と香具師で賑わっていたが見物客はあまり多くはなかった。谷保天満宮はというとちょうど獅子舞がはじまっていたこともあってか人がたくさんで私も獅子舞を囲む輪の中に入る。笛を吹いたり声を出したりする老人たちの表情が真剣そのもので鬼気迫るものがあり、落ち着きとざわつきが混ざったような神妙な心持ちになった。これはとても不思議ではあるけれど、神社仏閣に来るとよくなる馴染みのある状態だ。
  
天狗もいたのだった。


■久しぶりにたこ焼きやらじゃがバターを食べその思い切りのいい味に満足し、三軒茶屋へ。


■シアタートラムで宮沢章夫遊園地再生事業団ニュータウン入口」を観た。サブタイトルは「または私はいかにして心配するのをやめニュータウンを愛し土地の購入をきめたか」。大型店舗が一通り揃い快適な生活が約束される新興住宅地、ニュータウンといってもその土地は生まれたばかりではなく歴史があるのだ。かつてはそこは森だったにちがいない。ニュータウンではその「歴史」(それは「土地」であり「土」)がうまく隠される。しかし少し街から外れると森があり土があるのだ。そのズレから生まれる歪みに目を向けることがこの芝居の大切なことに思えた。おもしろかった。チェルフィッチュの作品によく出演している山縣太一という役者が良かった。「軽薄」を煮詰めたような演技で、身体の力が抜けていて、それはとても独特なものだった。また前回の「トーキョー/不在/ハムレット」のときもそうだったように、舞台後方の見えづらいところ(完全に見えないところではないのがミソだろう)で役者が演技をしているのをカメラがとらえスクリーンで映すという演出がとても良かったことだ。しかも今回はカメラマンに台詞があり、登場人物たちにインタビューをしたり、ナレーションのような言葉をこちらに投げかけ物語を進行させるのだった。スクリーンに映像が映し出されるとき、観客はカメラで映された映像を自分の視点のように捉えるが、しかしそのカメラマンが話し出すことにより「カメラマン」という登場人物が現われ観ている映像が「別の」視点だということに気づくことのおもしろさは、他者を感じる、ということかもしれない。「他者」とはなんだろう。それは舞台上で動く役者たちなのか、この「ニュータウン入口」という物語なのか、そんなことを考える。演劇というとある種の熱気、悪く言えば押し付けがましさ、があると思っている(あくまでもイメージの話です。具体的にあれがあれでというのはない)のだが、今回の、宮沢章夫の、といってもいいかもしれない、舞台を観るととても静的なものが感じられて、そこに佇んでいるという雰囲気がある種余白を残してくれているようであり、その冷静さがいい。だからといって、わかりにくいというのとは違う。結論を出さずたくさんのヒントを投げているのだ。それを受けとった観客はそれを糧にして考えることになるのだろう。