ゴドーを待ちながら
■ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』をようやく読んだ。
すこぶる愉快なコントだと思った。正体のわからぬゴドーを待ちわび、時間を持て余す二人の浮浪者のやりとりは非常に優れた掛け合いの漫才である。物語は進まない。それは何かの目標に向かって進むのではなく、ひたすら「待つ」という行為を扱っている。いや、「行為」というよりも「状態」というほうがしっくりくる。そしてそれは物語を「描く」というよりも状況を風景を時間を「切り取る」というほうがしっくりくる。
二人はなんやかんや言葉を交わしあい、何かをしようともする。だが結局、「ゴドーを待つんだ」「ああ、そうか」というやりとりでふり出しに戻る。同じことの繰り返しはやがて停滞感を伴う。その不毛さが僕を安心させる。と云うとまるで怠け者みたいだ。不毛なやり取り、無駄話を恐れることはないし大切だとも思う。小津の映画を観るときも思う。
■今日電車の中で同じ職場の三人組が電車に乗ってずっと仕事の話をしていて、それが、無性に腹が立った。
■「状態」を描くというとやはり深沢七郎の作品、特に『笛吹川』がそうだ。戦国時代のとある貧民の一族の生き死にを綴る筆致は徹底してヒューマニズムに流れずに淡々としている。生きていく上で生じるいざこざやズレを人間の大きな流れの中にある「営み」として無言のうちに肯定されているようで緩やかな気持ちになった。開高健は『人とこの世』の中で『笛吹川』をこう評した。
徹底的に具体的で徹底的に抽象の透明に達している。〜中略〜。この小説は終止もなく開始もないのだとさとらされて本を置く。
まさに『ゴドーを待ちながら』の感想のようだ。それにしてもまた深沢さんの話になっちゃった。
■ベケット、刺激的だった。引き続き全集を読み込もう。
■舞台を観る時はそこで描かれている場所を思い浮かべるのだが、戯曲を読む時はどうしても舞台上を思い浮かべてしまう。この違いが我ながら興味深い。「下手の舞台袖に走っていき〜」などと記されているから仕方ないのかも知れないが、皆はどうなのだろう?
■バイト帰りに「いとう」へ。深沢七郎『庶民列伝』を買う。二冊目。深沢さんほとんど絶版だから見つけたら買う。それで欲しい人にあげます。庶民ですねえ。